ホーム雑記祖父の話
2021年2月07日

祖父の話

grandpa

こんにちは、めがねです。

フォルダーを整理していたら、昔、祖父にインタビューした時のメモが出てきました。

折角なので、記事にしておこうと思います。

1939年頃、中学を卒業後、就職するために朝鮮へ行く。

当時は今のような就職活動というものはなかった。同郷の友人2人と計3人で朝鮮総督府に就職した。部署は保険、資産運用部、というところであった。正確には朝鮮総督府逓信局、保険運用課であろうか。

当時の月給は50円、1日に使える額は2円弱であった。パンが10銭ぐらいの時代である。串焼きが10本で1円だった。それが何よりも美味しかった。

職場にはエコノミスト、東洋経済、ダイアモンド、といった雑誌が置いてあった。当時からそういう雑誌を読める環境にいたのは、後々考えるととても良かったと思う。

仕事に関しては、中卒の人間に大きな仕事を任されるということはなく、時間があれば、只々文字を綺麗に書く練習をしていた。例えば大蔵省へ郵便物を送付する際には、その宛名を書いたりもした。

当時、満州で兄貴が働いていた。その兄貴が日本へ一時帰国し、また満州へと帰る道すがら朝鮮に寄り道してくれた。朝鮮での生活っぷりを見た兄貴が「こんな生活ではだめだ。満州へ来い!」と言い、連れて行ってくれることとなった。

1940年頃、満州へ渡る。

兄貴の知り合いの紹介で満州医薬品配給統制株式会社へ就職した。月給は250円、朝鮮で働いていた時の5倍であった。生活に余裕が出てきたと実感した。

1945年、終戦を迎える。

紆余曲折を経てシベリアで捕虜生活をはじめる。はじめの頃はとてもひもじかった記憶がある。しかし、ある時期を境に捕虜への食事の内容が激変した。それまでとは比較にならないほどの量を支給してくれるようになったのだ。

何が起こったのか、と後々考えてみると、1949年8月12日にジュネーブ諸条約が締結されたお陰で捕虜の待遇が良くなったようだ。ジュネーブ諸条約には4つの条約が含まれ、その1つが捕虜条約である。要は捕虜を丁重に扱え、とい条約である。どれぐらい待遇が良くなったかというと。1日1人あたりジャガイモ、米、共に数百g支給された。

シベリアではいろんな日本人に出会った。

1950年、8月2日、日本へ帰国する。当時、体重は65kgあった。

故郷に戻ってきたのち、知り合いの紹介で薬品会社に勤める。月給は3000円であった。はじめてもらった月給に比べたら60倍である。インフレだったのだろう。

仕事はそこまで忙しくはなかった。先輩と2人で各病院をまわり、「不足している薬はありませんか~。」と聞いていく。足りない薬があれば内容を聞いておき、後から届ける。夕方5時頃には仕事が終わった。

会社の社長の知り合いに娘がいた。どうやら両親を亡くし、1人で小さなお店を切り盛りしているらしい。その娘と結婚することになった。

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